バチカンと免罪符

バチカンの国旗バチカン市国というのをご存知でしょうか?イタリアの首都ローマにあるたった0.44km2の小国。サンピエトロ大聖堂とバチカン宮殿とサンピエトロ広場、そしてイタリア国内に点在する数箇所の建物からなる、枢機卿と教皇庁関係者で構成された人口1000人足らずの世界最小の国。なぜか、教皇の護衛はスイス護衛兵。いろいろ不思議ですね。ま、なぜかはまたの機会に取っておいて、・・・。

このバチカン宮殿を訪れた人はわかると思いますが、キリスト教徒でない人にとっても神々しいと思えるほど素晴らしい教会です。総本山にふさわしい、高い天井と数々の絵画、美しい天蓋に数々の聖像。世界に二つとない、崇高な空間です。

ただし、この事実も知っておいていただきたいですね、この教会の建設がいかにして成し遂げられたかということを。

宗教改革をご存知でしょうか。ルターやカルビンに端を発した改革運動。1517年95ヶ条の論題提示(ちなみにルターは神学者として当時の教会のあり方に対する意見書としてこれを記したといわれており、改革を起こす気はなかったようです。その証拠に彼はこの論題を民衆が読むことの出来ないラテン語で記しています。ところが1518年ドイツ語に翻訳され出版されると共に彼の意図に反して民衆に受け入れられ、改革の大きなうねりを生むことになってしまいました。)により法王の免罪符販売を批判し、聖書にのみ真実を求めるとした運動です。これによって、プロテスタント(講義を唱える人の意)教会が発生したキリスト教上の大事件のひとつです。

免罪符販売?ってなんでしょう。ちょっとその前に、懺悔という言葉をご存知でしょうか。キリスト教で神父に対し過去に犯した罪悪を告白して神に許しを請う行為を言います。実は仏教等にも同じような考え方があり、やはり懺悔が行われます。まあ、深く反省している人が悔い改め、懺悔を請い許されるということは分からなくもないですね。しかしながら、免罪符は少し趣が異なります。懺悔は懺悔でも免罪符を買ってお金を払えば罪が許されるというもの。ちょっとどーやろって思いますよね。当時の裁判権は教会が持っていたので、その教会がお金払ったら無罪放免っていったら、そりゃみんなこぞって大枚払いますよね。

免罪符の目的の一つは当時の教会が資金難を克服することだったといわれています。建築が決定されたのは1505年、翌年より建設が始まり1593年に完成。特に教皇レオ10世はサンピエトロ大聖堂の建築のために全免罪を公示しています。ドイツではそれに便乗しマインツ大司教が免罪符を大量に売りさばいたことが宗教改革に拍車をかけました。この免罪符は1563年トリエントの公会議で禁止されるまで売られ続けることになります。とんでもなく凄まじい大金が集められ建設に投入されたはずです。

 

 イスラム教とキリスト教

さて、イスラム教徒とキリスト教徒は仲悪いイメージがある方も多いと思いますが、本来はそうでもないはずなんです。

旧約聖書に出てくる預言者アブラハム。ここを共通点と考えると実はキリスト教もイスラム教も、そしてユダヤ教までが同じ宗教なのです。ユダヤ教とキリスト教が同じ旧約聖書(ちなみに、ユダヤ教徒にとってはこの教典のみが真実であり、単に”聖典”と呼んでいます)を聖典としていることはご存知の方も多いと思います。ノアの箱舟、モーゼの十戒や出エジプトなどが記されている書物です。

これに対しイエスの誕生以降、イエスを神の子、メシアであるとみなしたのがキリスト教であり、その聖典が新約聖書です。ちなみに、イエスはユダヤ教では認められていません。

ところがです、イスラム教ではイエスもモーゼも存在が認められています。イスラム教の預言者ムハンマドに先行する預言者としてアラーの使徒とされているんです。神が派遣したメシアという認識(イエスの神聖は認めていない)もあります。ちょっと驚きですよね。ちなみに、イスラム教ではムハンマドは最高かつ最後の預言者とされ、ムハンマドに下された啓示をまとめたコーランが聖典となります。なお、コーランにはイエスやモーゼの記述があります。

ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教の父(”父と子と精霊と”、三位一体で知られるキリスト教の教義の一つです。父は神を、子は神の子であるイエスを差しています。ちなみにイエスは人か神かという議論がなされてきましたが、現在の大多数の教会は”人であると同時に神でもある”と解釈しています)、イスラム教の神アラーは実は同一の存在なんですね、少なくとも教典上は。

なので、キリスト教徒とイスラム教徒は本来はいがみ合う必要はないはずなんですが・・・。

これらのことが分かるとエルサレムが何であんなに複雑なことになってるかが理解できると思います。なんせ、元が同じですからね。以下はエルサレムにあるそれぞれの宗教にとっての聖地です。

ユダヤ教 嘆きの壁 ソロモン王時代シオン第一神殿の遺構 BC587年バビロニアによって破壊されたが、ローマ帝国からこの地域の国王に命じられたユダヤ人のヘロデ王により復元された。その後ユダヤ人の反乱が理由で再度破壊された。現在では嘆きの壁以外は神殿の丘に埋められている。ユダヤ人には”西の壁”といわれている。
キリスト教 聖墳墓教会 イエスキリストが十字架に磔刑になったゴルゴダの丘にある、イエスの遺体が安置され復活したとされる教会 ちなみに、このとき刑を執行した政権がユダヤ政権だったためにユダヤ人は”キリストを殺した人々”とみなされてしまった。キリスト教徒はこの史実を逆手に取り、ユダヤ人の存在がキリストが存在した証拠であるとして、布教に利用することになる。
イスラム教 岩のドーム
アル・アクサ・モスク
かつてのエルサレム神殿跡にあるイスラム神殿
神殿の丘にあるイスラム寺院
”聖なる岩”を祭っている。この岩は3つの宗教で解釈がそれぞれ異なるちょっと困った岩。こっちは金色のドーム。
ウマイヤ朝時代に建設されたモスク。別名”銀のドーム”。預言者ムハンマドがミウラージュの奇跡において昇天したとされる場所。

歴史も不幸の連続です。69年ローマ帝国が攻め込みエルサレムを占領、エルサレム神殿を焼き落としました。その後132年に発生したバル・コクバの乱で、その原因がユダヤ教やその文化にあると考えたハドリアヌス帝はその根絶を図りました。結果的にユダヤ人は徹底的に迫害され、国を失う(このとき属州ユダヤの名は廃されシリア・パレスチナと改名されます。この名称はユダヤ人の敵対民族であるペリシテ人{一説には”海の民”の一族といわれています}に由来していますが、これが現在のパレスチナ問題の発端となっています)ことになります。その後614年にペルシャ帝国がエルサレムに侵攻、聖墳墓教会を破壊しキリスト教徒を迫害したのを手引きしたのはユダヤ人。629年東ローマ帝国がエルサレムを奪還したときはユダヤ教徒が迫害されました。638年今度はイスラム教徒がエルサレムを占拠。1009年にはイスラム教のカリフが聖墳墓教会を破壊。で、1099年から1291年は十字軍が占拠、イスラム教徒とユダヤ教徒を殲滅しています。ちなみにこの間は、岩のドームは礼拝堂、アル・アクサ・モスクは十字軍の宮殿として利用されました。これらの争いは20世紀の中東戦争の泥沼へと続いていくことになります。ぐちゃぐちゃですね。

一つの聖地を3つの宗教が共有してしまった事実、古代から東西交易の重要地点であった経済的利点、ローマによって国を追われてしまったユダヤ人と彼らのパレスチナ帰還運動(シオニズム、ただし、パレスチナの人にとっては2000年近くも定住していた土地を逆に奪われることになりますね)、そして、現在では中東地域での石油や天然ガスなどの資源利権。んー、仲悪くなってもおかしくないかもしれませんね。うまい解決策が見つかるといいんですが。

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